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日本でFCEVを市場から撤退させない理由

査定君
査定君

日本でFCEV市場から撤退しない理由を、政策・産業構造・トヨタの戦略・韓国車との比較から整理。なぜ失敗が明白でも延命されるのかを解説する。

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はじめに:なぜFCEVは「失敗しているのに消えない」のか

燃料電池車(FCEV)は、世界的に見て乗用車市場では明確に主流化に失敗している。
販売台数、インフラ整備、コスト、すべての面でBEVに敗北し、商業的に成立していないことは
米国、欧州、中国、日本のいずれの市場でも確認されている。

それにもかかわらず、日本ではFCEVが「次世代車」「脱炭素の切り札」として
市場から完全撤退する気配を見せていない。
本稿では、その理由を政策・産業・企業・国際比較の視点から整理する。

FCEVの現実:市場として成立していないという事実

世界的販売実績から見たFCEVの限界

FCEVの代表例であるトヨタのFCEV(水素燃料電池車)は、
2014年の初代発売から10年以上が経過したが、世界累計販売台数は数万台規模にとどまっている。これは同期間に数百万台規模へ拡大したBEVとは比較にならない水準である。

米国ではカリフォルニア州、日本では一部都市圏に販売が限定され、
欧州ではほぼ実証実験レベル、中国では乗用車FCEVから事実上撤退している。

補助金とインフラ依存という致命的構造

FCEVは車両価格、水素燃料、水素ステーションのすべてが補助金依存であり、
民間投資のみで成立した市場は存在しない。
特に水素ステーションは建設・維持コストが極端に高く、
稼働率が低いため赤字構造が恒常化している。

これは「将来改善される可能性」の問題ではなく、
現時点ですでに市場として破綻している構造である。

なぜ日本ではFCEVが撤退しないのか

理由① 国家エネルギー政策と深く結びついてしまった

日本においてFCEVは単なる自動車技術ではなく、
「水素社会」という国家構想の象徴として位置づけられてきた。
エネルギー安全保障、産業維持、脱炭素という複数の政策目的が
FCEVに過剰に集約された結果、撤退=政策失敗の認定になってしまった。

理由② 官民一体構造により責任主体が曖昧化した

FCEV推進は一企業の独断ではなく、国・自治体・研究機関・企業が
一体となった官民連携プロジェクトとして進められてきた。
その結果、商業的失敗が明らかになっても、
「誰が撤退判断を下すのか」が不明確な状態に陥っている。

理由③ 「技術は正しい」という神話が崩れない

日本では長年、「技術的に優れていれば、いずれ普及する」という
技術至上主義が根強く存在してきた。
FCEVもまた「理論的には正しい」「究極のエコカー」という評価が先行し、
市場原理による淘汰が受け入れられていない。

韓国FCEVとの比較:追いつき、追い越したはずだったが

ヒョンデのFCEV戦略

韓国ではヒョンデがFCEVを国家戦略の一環として推進し、「ヒョンデNEXO」を投入した。
一時期は年間販売台数でトヨタを上回り、
「日本を追い越した」と評価された時期も存在する。

しかし結果は日本と同じ袋小路

韓国国内では政府主導でインフラ整備が進められたが、
水素供給コストの高さ、利用者の少なさは日本と本質的に変わらない。
欧州市場でもNEXOはほぼ存在感を示せず、
米国でも販売はカリフォルニア州に限定されている。

つまり、日本製FCEVと韓国製FCEVの違いは
「一時的な販売量の差」に過ぎず、構造的な失敗は共通している。

それでも撤退できない日本特有の事情

「国策=正義」という思考停止

日本では国策として推進された技術は、
商業的失敗が明白になっても
「途中でやめること自体が悪」と見なされがちである。
その結果、FCEVは評価・検証されることなく延命され続けている。

BEV軽視の正当化装置としてのFCEV

FCEVを推進することで、
「BEV一本足は危険」「多様な選択肢が必要」という論理が成立する。
これは結果として、日本メーカーのBEV出遅れを
正当化する役割を果たしてきた。

乗用車以外なら成功するのか?その幻想

商用車・産業用途も採算度外視

「乗用車は失敗でも、商用車や産業用途なら可能性がある」
という主張があるが、現実にはこれも過度に楽観的である。
大型車両ほど水素供給コストとインフラ問題は深刻化し、
補助金なしでは成立しない構造は変わらない。

成立するとしても極めて限定的用途のみ

FCEVが残る可能性があるとすれば、
軍事・研究・一部の閉鎖空間など、
市場原理が働かない特殊用途に限られる。
それは「成功」ではなく、「延命」に過ぎない。

結論:日本でFCEVが撤退しない本当の理由

日本でFCEVが市場から撤退しない理由は、
技術的優位性でも将来性でもない。

  • 国家政策と結びつきすぎたこと
  • 官民一体構造による責任不在
  • 失敗を認められない制度と文化

これらが複合的に絡み合い、
「失敗しているが、やめられない技術」
としてFCEVを市場に残し続けているのである。

日産EVを国策にしなかった日本の致命的判断

かつて日産EVは「世界の最先端」にいた

2010年前後、日本にはすでに世界市場で圧倒的な先行優位を持つ量産EVが存在していた。
それが日産の電気自動車:日産リーフである。

リーフは量産EVとして世界で初めて本格的に普及し、
北米・欧州・日本のいずれにおいても
「EVといえば日産」という評価を獲得していた。
航続距離、コスト、量産体制、実用性のすべてにおいて、
当時の他社EVを明確にリードしていたことは疑いようがない。

もし日産EVを国策にしていれば、日本は世界のリーダーになれた可能性が高い

仮に日本政府が、
FCEVではなく日産EVを中核に据えた電動化政策を採用していれば、
日本はEV分野において
「技術・市場・規格」のすべてで世界標準を主導できた可能性が高い。

EVはインフラ、エネルギー、半導体、ソフトウェアと結びつきが強く、
裾野が極めて広い産業である。
これは結果的に、
雇用維持どころか、雇用創出の可能性がFCEVより圧倒的に高かった
ことを意味する。

それでもFCEVが選ばれた理由:雇用維持という幻想

にもかかわらず、日本はFCEVを選択した。
その背景にあったのが、
「既存の内燃機関技術やサプライチェーンを延命できる」
「急激な産業転換を避け、雇用を守れる」
という発想である。

しかしこれは、結果的に妄想であった。
FCEVは量産化せず、市場も形成されず、
雇用を守るどころか新たな産業基盤も生み出せなかった。

割を食ったのは日産と日本国民だった

FCEVに政策リソースが集中した結果、
日産は世界EV競争の主導権を失い、
日本はEV規格・電池産業・ソフトウェア分野で後塵を拝することになった。

そのコストを負担したのは、

  • 競争力を削がれた日産
  • 成長産業を失った関連企業
  • 税金でFCEVを支え続ける日本国民

である。
これは産業政策として見ても、
機会損失という意味で極めて大きな失敗だったと言わざるを得ない。

日本メディア報道と国際評価の決定的乖離

日本国内では現在でもFCEVは
「将来有望」「次世代エネルギーの切り札」
として報じられることが多い。

一方、海外メディアや産業分析では、
FCEVはすでに
「乗用車用途では失敗が確定した技術」
として扱われている。

この乖離は、単なる視点の違いではなく、
日本社会が失敗を失敗として認識できていない
ことの象徴である。

BEVですら行き詰まった後の「次の現実解」とは何か

BEVも万能ではなく、
資源制約、電力網、価格の問題を抱えている。
しかし、だからといってFCEVが復権するわけではない。

現実的な次の解は、

  • BEVの進化(電池・効率・価格)
  • 用途別最適化(都市・長距離・商用)
  • 合成燃料や省エネ技術との組み合わせ

といった複合解であり、FCEV単独で主役になる未来ではない。

誰がこの政策失敗を検証すべきなのか

FCEV政策は、

  • 明確な成功指標が設定されないまま
  • 撤退基準も定められず
  • 検証責任も曖昧なまま

続けられてきた。

本来であれば、
このような国家規模の投資については、
第三者による検証と総括が不可欠である。
それが行われない限り、
同じ構造的失敗は今後も繰り返されるだろう。

おわりに:撤退こそが次の現実解への第一歩

FCEVの延命は、新たな技術革新を阻害し、限られた資源と時間を浪費する。
本当の意味での脱炭素と産業競争力を考えるなら、撤退を含めた冷静な総括こそが求められている。