
ツインリンクもてぎのホンダコレクションホールに展示されたF1マシンを紹介
1962年にF1参戦を発表。ロータスシャーシを用いたF1参戦がボツになり、自社エンジン、シャーシを用いたワークス体制での参戦を行った。ゼッケン20番はRA271の初代F1マシン
ホンダF1初代創生の歴史
ホンダはその1963年に軽トラックと、小型スポーツカーを発売しました。
そして、1964年にホンダの創業者である本田宗一郎がF1に参戦したのです。
当時のトヨタも日産もF1に参戦していない中で、自動車メーカーとしては、まだ中堅メーカーの発のホンダがモータースポーツの世界最高峰(F1)へ参戦したのです。
これは、国内外の自動車メーカーにとっても大きなニュースとなりました。
RA270試作車
- 1962年8月:プロトタイプエンジンのレイアウト設計書図面の作成に着手
- 1963年6月:エンジンの性能テストに着手
- 1964年2月:鋼管スペースフレームのF1試作車完成。荒川のテストコースを試走
RA270エンジンスペック
- 中村良夫氏(F1チーム初代監督)による試験テスト
- 初期:5速で8500回転、最高時速は175km
- 熟成後:RA270は初めて200馬力を突破し、210馬力、1万1800回転を記録。
ホンダの初代F1参戦とは(RA271)
1964年、ロータスと組む予定でしたが、ホンダ自社製シャーシを作成し、V12エンジンを組み合わせたF1に参戦します。(シャーシ:RA271)
1.5Lの横置きV12エンジンは、220ps以上を発揮。(エンジン:RA271E)
ホンダの初代F1優勝とは(RA272)
ゼッケン11番、RA272は、ホンダワークスでのF1参戦で初優勝のマシン。
1965年、1.5リッターエンジンのレギュレーションで最後となる。
当時としては、苦労の結果、素晴らしい結果であるが、国内におけるモータースポーツへの理解が浅く、報道の結果も暴走族と勘違いされるなど、国内での認知度はかなり浅かったことがわかる。
まさにプロジェクトXである。
ゼッケン18番、RA273は、
レギュレーションが変更となり、3リッターエンジンとなる。
90度V型12気筒DOHC48バルブ
400ps/10500rpm以上
最高速度350キロ以上、重量650キロ
RA273
RA300

という流れがF1参戦の第一期になる。
市販車用の低公害型のエンジン開発を目的として、1968年にF1参戦を中止する。
この後、フォードコスワースV8エンジンが主流となり、プライベートチームが盛隆を極める。
ホンダF1撤退に共通する“本当の理由”とは
ホンダ(Honda)はF1史において大きな存在感を放ってきたメーカーの一つですが、同時に「複数回撤退している自動車メーカー」としても知られています。
本記事では、ホンダがF1から撤退した“本当の理由”に焦点を当てつつ、1960年代からの参戦と撤退の歴史を総まとめします。
ホンダは4度にわたりF1参戦と撤退を繰り返してきましたが、その背景には共通するポイントがあります。これらは各期の詳細を追う前に理解しておくべき重要な要素です。
(1)企業経営資源の再配分(技術・人材・予算)
ホンダが撤退を決断する時期には、必ずといってよいほど「事業環境の大きな変動」があります。景気後退、為替変動、世界的危機などがその典型です。
(2)市販車事業の戦略転換
F1は技術開発の場であると同時に莫大なコストがかかるプロジェクトです。電動化戦略や環境技術への集中が必要になったタイミングでは、F1を継続する意味が薄れることがあります。
(3)企業イメージと技術開発の方向性
モータースポーツでの勝利はブランド価値向上に大きく貢献しますが、その方向性が市販車戦略との相性を欠く場合、撤退に傾く傾向があります。
特に近年は「カーボンニュートラル」「電動化」が重要テーマとなり、F1でのエンジン開発を継続する意味が問い直されました。
第1期(1964~1968年)|初参戦と事故による衝撃的撤退
概要
ホンダは1964年にF1へ初参戦し、エンジン、シャシーを自社で開発する“ワークス体制”で世界へ挑みました。
1965年のメキシコGPではR.A.ギンサーが優勝し、日本メーカーとして初のF1勝利を達成しました。
撤退の理由
- 開発コストの増大
- 1968年の事故(ジョー・シファート死亡事故)による企業イメージへの影響
- 市販車事業の成長優先
特に事故は企業としての社会的責任を問われる問題となり、ホンダは深い反省の中でF1からの撤退を決断しました。
第2期(1983~1992年)|黄金期とバブル崩壊による撤退
概要
1980年代後半はホンダの黄金期で、マクラーレン・ホンダ、ウィリアムズ・ホンダとして圧倒的な強さを誇りました。
アイルトン・セナ、アラン・プロストらの活躍とともに、ホンダはF1最強エンジンメーカーの名を確立しました。
撤退の理由
- バブル崩壊による経営環境悪化
- F1エンジン開発コストの急増
- 市販車技術の方向性との乖離(高出力ターボ vs 市販車の環境技術)
絶対王者として勝ち続けたホンダですが、国際経済環境の悪化を理由に1992年末で撤退しています。
第3期(2000~2008年)|ワークスとして復帰するもリーマンショックで撤退
概要
2000年にエンジンサプライヤーとして復帰後、2006年には自社チーム「Honda Racing F1 Team」を立ち上げ、完全ワークスとして参戦しました。
2006年ハンガリーGPでジェンソン・バトンが優勝し、ワークス復活後の勝利を収めました。
撤退の理由
- リーマンショックによる世界的経済危機
- 赤字転落による財務悪化
- F1維持費(年間500億円超)の負担増
世界的不況の中、ホンダは“企業の存続”を優先し、2008年末でF1活動を停止。
なお翌年、ホンダF1チームの残骸から誕生した「ブラウンGP」がチャンピオンを獲得したことは有名です。
第4期(2015~2021年)|低迷から復活、しかし電動化転換で撤退
概要
2015年にマクラーレンと組みF1復帰。しかし当初はパワーユニットの信頼性と性能不足で低迷し、メディアからも批判が集中しました。
その後レッドブルとの提携で大成功を収め、2021年にはマックス・フェルスタッペンがドライバーズチャンピオンを獲得しています。
撤退の理由(公式発表+背景)
- カーボンニュートラル技術への経営資源集中(電動化へのシフト)
- F1のハイブリッドPU研究が市販車EV技術に直結しにくくなった
- 2030年カーボンニュートラル目標による社内投資戦略の変更
レッドブルとのコンビで勝てるようになった直後の撤退はファンに衝撃を与えましたが、ホンダの「企業としての大方針転換」が最大理由といえます。
2022年に参戦しなかった理由
2021年末に正式撤退したホンダは、2022年については「完全不参加」となりました。
その最大理由は 電動化戦略への専念 にあります。
2022年不参加の具体的理由
- EV・燃料電池・新エネルギー開発へのリソース集中
- F1パワーユニット規定が電動化と直結しにくかった
- 2026年の新規則(持続可能燃料・電動比率増)待ちの戦略
ただし完全撤退とはいえ、実際にはレッドブル・パワートレインズへ技術的サポートを提供しており、実質的には「名義なし継続」のような状態 となっていました。
まとめ|ホンダF1撤退の本質は「経営資源の最適化」
ホンダは4度にわたり参戦と撤退を繰り返してきましたが、どの期においても共通しているのは、
企業としての戦略転換と経営資源の再配分 です。
- 第1期:事故と事業成長の優先
- 第2期:バブル崩壊と市販車環境技術へのシフト
- 第3期:リーマンショックによる財務悪化
- 第4期:電動化戦略による技術投資の見直し
特に近年は世界的なカーボンニュートラルの潮流の中で、ホンダはEVや水素といった新領域へ大きく舵を切りました。その結果としてF1撤退は“やむを得ない経営判断”だったといえます。





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